鷲山寺伝

日蓮大菩薩は文永(ぶんえい)元年(1264)秋の末、或いは10月3日。43歳の時、母君がご病気になられたと知らせを受けすぐさま房州の生国へと向かいました。しかし時すでに遅く、その日の朝に逝去されていました。大菩薩は悲しみ嘆くも、「私は経王たる法華経を日本国中に流布させる者。悲母を再び蘇生させたまえ」と丹心に法華経薬王品(やくおうぼん)の要文を読誦(どくじゅ)。さらに母の口へ水を注ぐと不思議とすぐに蘇生されました。その後、師匠である道善房に謁見(えっけん)し、西條花房郷(さいじょうはなぶさごうり)蓮華寺(れんげじ)にて浄圓房(じょうえんぼう)に一切経の勝劣(しょうれつ)・他の宗派、宗教では成仏は出来ないと「当世念仏者無間地獄事(とうせいねんぶつしゃむげんじごくごと)」一巻を著(あらわ)し伝授しました。

小松原法難

文永元年11月11日鎌倉への帰路、東條景信(とうじょうかげのぶ)の館の前にある小松原大道を通り過ぎようとした時、敵意を持った景信が数百人を従え、道を遮り一行を囲み襲ってきました。味方は僅かに十人程足らず。防戦は無勢。景信は多勢。射る矢は雨の如し。打つ太刀は雷光のように早く。鏡忍房(きょうにんぼう)は即座に討ち取られ、乗観房(じょうかんぼう)・長英房(ちょうえいぼう)深手を負い。西條天津(さいじょうあまつ)の城主工藤左近吉隆(くどうさこんよしたか)はこの襲撃を聞き駆けつけ大菩薩に味方され天津の館へ御避難させると、自ら防戦へと戦いに戻りましたが終に討ち死。大菩薩も眉間を景信の鐙(あぶみ)に蹴られ三寸の傷を受け、さらに手を折られ半死半生の身となられましたが、不思議とこの難を免れ、総房(そうぼう)の堺市ヶ坂(さかいいちがさか)の塩の岩窟(がんくつ)まで辿り着き身を隠すことが出来ました。その夜、命を落とした日忍(にちにん)(鏡忍房)・日玉(にちぎょく)(吉隆)の事を思い、当に「法華経を弘める人は法の為に命を捧げ、死して尚法華経を弘めるであろう」との経文通りの生き方であったと褒め称え、そして悲しみ終夜読経唱題し夜を明かしました。
 明け方も過ぎ日も東より出た頃、一人の老人が大菩薩を見つけると、何故そのような怪我をしてこの岩窟に身を隠されているのか尋ねられました。大菩薩はここに至った経緯を詳しく語ると、その老人は代々この地に住み神職をしている市という者であった。大菩薩のお言葉を頂き痛ましく思った市夫妻は介抱を申し出て、飲食や薬を施し手当を行いました。その甲斐あり痛みも少し引いてきましたが、打擲(ちょうちゃく)の傷は未だ深く完治には至りませんでした。月移り年変わり翌年春になり寒さも少ない岩窟(がんくつ)にて市夫妻に詳しく法を説くと、信心深く信仰するに至りました。傷はほとんど癒えていましたが、夫妻は「麁食(そじき)ながらもしばらく留まって頂きたい」と申し出られたので、快く引き受け法を説き続けました。

日蓮大菩薩と小早川内記の盟約

  ようやく三月中旬も過ぎた三月十八日、鎌倉へ帰ることを志すと市夫妻に介抱のお礼、そして別れを告げ上総下総を出発しましたが、昼時より大雨が降り出しさらに山野の道も悪く人里も希(まれ)にして宿も無く佇んでいました。すると一つの堂舎を見つけ、ここで一宿を借りようと入るとそこは上総笠森(かずさかさもり)の観音(かんのん)こと三十三札所(ふだしょの観音でした。笠を脱ぎ礼拝、誦経唱題し向柱へ御製(ぎょせい)を
 日ハ暮ル雨ハフルノ、道スカラカカル旅路ニ宿ル笠森
と書き付け、終夜誦経唱題し夜を明かしました。
 翌朝、出発と思いましたが案内を頼める人も隣家も有りませんでした。幸いに遙か向こうの河岸の煙の立つのを見つけ、これを便りに向かうと老人が居りました。老人は「あなた様は朝早くよりどちらに行かれますか。なにか助けになることはありますか」と尋ねられました。大菩薩は前夜の事を語ると、「実は昨日の夜に観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)が『明日、この家に一人訪ねてくる。善く供養せよ』と夢にてお告げがあったので、今朝は普段より速く観音へ参詣を済ませ、その方に茶をして頂こうと思っていたところです。飲み食いせず夜通しの読経の事さぞお疲れと察します、是非々々私の小庵にてお休みになって頂き、少しの縁ですが食事の供養をさせて頂きたく思います。そして法義(ほうぎ)の端々までお教えください。」と懇願されました。
 そのとき、野武士と思われる人が来られ大菩薩の話を聞くと、休む場所が荒れているのを見て、「私は鷲巣(わしのす)という所に住む、小早川内記(こはやがわないき)と申す者。この庵主(あんしゅ)は墨田五郎(すだごろう)と言う方で朋友の藻原氏(もばらし)の家臣である。この人は老人の故に侍官(じかん)を逃れ、来世の用意の為に仏に手を合わせ祈ることが仕事となっている人です。幸いに貴僧には諸国(しょこく)行脚(あんぎゃ)をしていると見受けます。ここは辺鄙(へんぴ)な場所で仏法を学ぶ事も希なこと、是非我が家へお入り頂き一句の経文を御教化(ごきょうけ)頂きたく思います。」と誠に盲人(もうじん)の目を開かせる御慈悲と両人異口同心(いくどうしん)に願う姿を見た大菩薩はすぐさまその思いに答えました。小早川宅へ入り墨田五郎は直ちに入道して日徳(にっとく)と改め御弟子となりました。暫く留まり、人々に法を説き教化なさって居られました。
小早川宅には高山がありそこに日之宮(ひのみや)、日輪勧請(にちりんかんじょう)の小祠(ほこら)があります。大菩薩は日々この嶺(みね)へ登り、誦経唱題、天下泰平、王経廣宣流布(おうきょうこうせんるふ)の御祈誓(ごきせい)なさっておりましたので小早川内記は、一間四面の小庵(しょうあん)を施(ほどこ)し、日中には暑さを避け、雨天には雨露を凌ぎました。夏中の勤経(ごんぎょう)もついに七月になり一夏九旬(いちげくじゅん)の安居(あんご)も終え、小早川内記と一寺建立の盟約を交わし鎌倉へ帰ることを志し、別れを告げ旅立ちました。

鎌倉~身延入山

 帰倉(きそう)なされた大菩薩は、さらに強く謗法(ほうぼう)を戒めその数も増えていきました。そのことをよく思わない邪宗の贋僧(にせそう)は大菩薩をおとしいれるために事実を曲げた文章を作り上げついに、文永(ぶんえい)8年(1271)9月12日の夜、乱暴な振る舞いを受けたかと思えばその上、龍口(たつのくち)へ連れて行かれました。いわゆる四度の大難(だいなん)の第三。この節も刀尋殷々壊(とうじだんだんえ(普門品の偈))の金言(きんげん)の通り免れると10月10日佐渡へ流罪を被り、文永11年(1274)3月26日赦免。帰倉後、平(たいらの)賴(より)綱(つな)に対面し種々問答の上、愛染堂(あいぜんどう)の別当となり、一千町(いっせんちょう)を被る。大菩薩は、「天下を於いて諌(いさ)めること三度に及び御用これ無く、上は身延へ退くべき。この先言なれば鎌倉を去り5月12日に甲州身延の嶺に入り給い6月17日南部六郎實長(なんぶろくろうさねなが)の結構にて草庵(そうあん)を結び昼夜の読誦唱題或は、台家(たいけ)三大部に蛍雪(けいせつ)給うより他事無し。」と身延へと御入山されました。

御開山 日弁大正師

 入山4年目の建治(けんじ)3年(1277)春、越後阿闍梨日弁大正師(えちごあじゃりにちべんだいしょうし)を召され本門八品三大秘法(ほんもんはっぽんさんだいひほう)の奥義(おうぎ)を詳しく直授・相伝し、「先年総房遊学の時、上総鷲巣小早川内記と師檀(しだん)の盟約(めいやく)あり、一夏九旬安居の地なればこの地に一寺を建立(こんりゅう)し鷲山寺(じゅせんじ)と名付け尚、この事終われば布教(ふきょう)することに暇(いとま)を作らず、常州(じょうしゅう)・奥州(おうしゅう)を教化し一千精舎(いっせんしょうじゃ)を建立し心願成就(しんがんじょうじゅ)すべし、辞退する事の無いように。」と剃髪毛髪(ていはつもうはつ)を墨となし鏡に向い尊像自画遊し餞別(せんべつ)として授け、大正師は慎しみて拝受、永別(えいべつ)に紅(くれない)の涙を沈め上総へ向かい小早川に対面し尊意を伝え一夏安居の地に一寺建立。寺名を高祖身延にて
立渡ル身ノ憂雲モハレヌベシタへヌ妙法ノ鷲ノ山風
 と御製に詠み表した通り、鷲山寺と名付けたとも伝えられています。その後、御弟子少訥言日源(しょうなごんにちげん)に譲り北国へ出立。邉田方(へんたかた)(現在、東金)にて古賀台(こがだい)の北條氏に謁見し御教化、上行寺を開創(かいそう)。下総中村峯の妙興寺を開創。常州・奥州へ、さらに常陸(ひたち)にて数多(あまた)の寺を開創し、名古曽の関を越え岩城相馬を経て阿武隈川周辺奥州伊具郡(いぐぐん)神次郎村(じんじろうむら)へ向かう。宮城県角田市佐倉を布教中に邪教浄念寺(じょうねんじ)の寺男久六(てらおとこきゅうろく)の恨みに遭い加藤家にて刺され殉難なされ、御尊骸は「鷲巣の鷲山寺へ送るべし」との御遺言のままに火葬せず生身のまま出発しましたが、その長い道のりに送り届けることが難しく惜しくも、大正師開創の茨城県赤濱大髙山妙法寺(あかはまだいこうざんみょうほうじ)に墓所を創り埋葬しました。ここで荼毘に伏しその灰を集め御尊像を作り鷲山寺へとお帰りになられました。

大本堂再建

 750年の永い歴史の中、山上の本堂は四度の火災に遭いましたが、高祖ご尊像は難を逃れ火伏せのお祖師様と信仰されており、慶安2年(1649)徳川家光公より御朱印地を拝受。正徳3年(1713)には第27世日誠聖人は正親町三条家の猶子となり菊紋を拝受され以来歴代は菊紋の袈裟を身につけています。また慶安4年(1868)には有栖川宮家の祈願所なり御簾、御幕を寄付されました。
 四度目の火災以降すぐさま再建の計画が上がり、約70年の令和2年11月ついに大悲願であった大本堂を山上へと再建を成就することが出来ました。